Pardon me, would you listen please?

 日記

 

気が付いた時にはもう25歳にまで歳をとり、25歳です、と自分の年齢を告げると「25歳とは思わなかった。顔つきは幼いというか、童顔ですね」みたいな言葉を返されることが最近何度かあった。

これまでの人生で己の顔を童顔と認識したことはなく、むしろ高校生の時などは社会人と間違えられることも多かったので、いわゆる「老け顔」と自認していたし、そんな訳はないだろうと思って鏡を覗いてみると、まあ確かに化粧をしていない自分の顔は丸顔が目立ち、パーツはどれも控えめで、少し離れた目となんとなく間の抜けた雰囲気が幼さを醸し出している気がしなくもなかった。20代半ばになってそんなことを思い始めるということは、つまりは私の顔は20代前半の顔立ちをしているということなのかもしれない。

 

1週間ほど前に友人が送ってきていたメッセージに今日になって気が付いた。連絡を取ることでさえ2年ぶりだったので、1週間も放っておいてしまって申し訳なく思う。私とこの友人は5年近く前にティンダーで知り合った不思議な関係である。ティンダーはここ数年で日本での知名度がぐんと上がり、"気軽な"出会いの方法の一種として利用者も増えているマッチングアプリだけれども、私が友人と出会った頃はまだ日本での知名度は低かった。名古屋でアプリを開いて見てみてもあっという間に近隣の利用者全員を見終わってしまうほどで、それでもその少ない人間の中には様々な目的でアプリを利用している人がおり、私は何人かの面白い人々と出会うことができた。今回連絡をくれた友人はその中でも飛び抜けて思考と言葉が丁寧で、私はそれまで、これほどしっかりと対話を行う男性を見たことがなかったので、えらく感動したのだった。今では性的なことしか考えられない・言えない、人間の女ではなく女体を求めて彷徨う魑魅魍魎が利用者の大多数を占めてしまっているため、そのような出会いが難しいことは間違いなく、少しもの哀しい気分になる。もし自分が現在20歳で当時と同じように人間とのコミュニケーションを求めた場合、どんな方法で人と出会うのだろう。まずティンダーは使わないだろう。

 

この友人と初めて会った時、小腹が空いた私たちはどこか何か食べられるところへ入ろうかということになったがあまりにも田舎道に居たので店がなく、スーパーの駐車場に止まっている移動販売の焼き鳥を買って車の中で食べた。車の中でああだこうだと自分たちが考えていることを議論したことは、手元の焼き鳥と夕暮れの風景も合間って私の中ではノスタルジックな思い出になっているのだけれど、このことを思い出すときに何故だか、ネットでよく見る「初デートでサイゼリヤへ連れて行く」の件のことも一緒に思い出す。おそらく、(私と友人は恋愛関係ではないが)「初見の人間と二人で出かけた際に車内で食べる焼き鳥」は「初デートでサイゼリヤに行く」のと同じようなもので、どこか通ずるものがあるからだと思う。初デートでサイゼリヤへ行くことを支持している人間には、おそらく「サイゼリヤ(等の価格帯の低い店)にいきなり連れて行っても嫌な顔をしない取り扱いの容易な人間と交際したい」という人と、「サイゼリヤという日常感溢るる場所で幸せを感じることのできるくだけた雰囲気のカップルいいよね」という人の2パターンが(少なくとも)あるわけで、私はどうしてもこれらの考え方に卑しさを感じてしまう。何が卑しいかというと、相手をジャッジしようとしているその心持ちはもちろん、まだ浅い関係性であるにも関わらず、時間をかけて積み重ねて培われるはずの親密さを今すぐに手に入れる期待を抱いているところに意地汚さを感じる。私と友人が楽しく焼き鳥タイムを過ごせたのは(私たちが友人であり恋愛をしていないというのも大いに関係するとは思うが)その日初めて会うまでに一年以上連絡を取り合って、ある程度の親密さのようなものを培っていたからだと思う。時間もお金もかけたくないけど親密な人間が欲しいだなんて、その自分都合の考え方が気持ちが悪い。

このサイゼリヤの話と似た話題でよく見るものに「デートの食事代奢り・割り勘問題」がありますが、まあお金なんてたくさん持ってる方が払えば良いんじゃないかなと思います。