「大事MANブラザーズバンド」って語呂がいいからこのバンド名になったって本当なの?

先週のとある日、一通りやるべきことが済んで一息つくとまだ16時過ぎだったので以前働いていたツタヤを訪れた。2年前、オーストラリア留学をきっかけにバイトを辞めてからはツタヤに訪れることはめっきり減ったのだけど、それでもボロい二階建ての建物に入ると自然と落ち着いた気分になる。ツタヤはあまり綺麗ではなくて埃っぽくて、スタッフのみんなは気だるそうに働いていて、更衣室と休憩室は異常に狭くて、社員が喫煙者だから休憩室でタバコを吸うことが許されている。私が経験してきたバイトで一番居心地が良かった場所である。今回もいつも通り仲の良い販売担当のおじさん(私はレンタル担当だった)に声をかけて、私の近況を報告した。

 

特に何を借りるのか考えずに来たものの、借りるものはすぐに決まった。DVDは「ドリーム」、「全員死刑」、「新感染」、「サークル」、「ベイビードライバー」の5本。CDアルバムは大森靖子を2枚、人間椅子を2枚、岡村靖幸を1枚、宇多田ヒカルを4枚、それに鬼龍院翔の「オニカバー90's」の10枚を借りた。

 

本とか映画とか音楽とか、そういう影響力を持つコンテンツは何の意識をしていなくてもその時々に必要なものが勝手に寄ってくるから面白いと思う。大学に入りたての頃は寺山修司に出会って生き延びれたし、卑屈な性格になりそうだった時期には筋肉少女帯を聴き始めて変な擦れ方をせずに済んだ。私は不可知論を支持しているから神を強く信じることはないけれど、それでもこういった類の偶然は本当に不思議で偶然以上の何かなのかもしれないと思うロマンチックな瞬間がある。神ってロマンチックだ。

 

今回のそれは、鬼龍院翔の歌う「それが大事」と宇多田ヒカルの「wait and see」だった。 どちらもわざわざ聞かなくてもテレビや街中で耳にしたことのある曲で、多分「よく見ること」「待つこと」「信じること」は大切だからやれ、報われないリスクはあるけどそうするべきなんだ、という歌。ありがちといえばありがちで、チープなテーマかもしれないけど、私もそうだと思う。

 

最近社交辞令を覚えたから、人に何かに誘われた時や自分が人を何かに誘った時の返事、いろいろなことが社交辞令かどうか疑うようになってしまった。今までだったら何の疑いもなく相手の言うことを信じることが出来たのに、出来なくなってしまった。きっとこれは世の中的には「適応」に近づいて喜ばしいことなのかもしれないけど、私は何だかバカになった気分である。

 

高校生の頃から私の中でアイドル的存在だった人に久しぶりに会いたくなったから、会いたい旨を連絡した。職業としてのアイドルでない人間をアイドル扱いするのはやっぱり失礼だと思うから、これからは人間として仲良くなりたいとも思っている。その人は食事に行ってもいいよ、と言う内容の返事をくれたものの、私はそれが社交辞令なのかと疑い、「本当に誘いますが、いいのでしょうか?」と念を押した。向こうからすればおそらく、何やねんこいつ、いいって言ってんだろ、って感じである。

 

社交辞令以外にも私は変な「忖度」を繰り返している。ほんの少し連絡がなかった友人に「もう関わりたくないときはそう教えてください」といきなりちょっとキレてるメッセージを送りつけたりもした。これは私としては相手が言いにくいことを言いやすくする心遣いだったのだけど、はたから見ればただの攻撃なので自分でもびっくりする。私は憂鬱な気分でいることは多いけれど、すっかりティーンエージャー気分からも抜けて、いわゆる「メンヘラ」の要素はなくなり元気に暮らしているので、最近は攻撃性が自分ではなく他人に向かいまくっている。忖度と他人への攻撃性が一緒になるのは本当に最悪だ。

 

だから、私はやめにする。大事MANブラザーズバンド宇多田ヒカルも、多分社交辞令をやめようぜと歌っているつもりは全くないとは思うけど、私は私に関わる人を見て、待って、信じていかなければならないと思う。何かを決めつけて衝動的に動いたり、人の悪意を見つけようとしたりするのは馬鹿馬鹿しい。その人が私と関わることを選んでいるのだし、自分と関わる人の口から聞こえる言葉を信じなくて何を信じれば良いのか。

 

何故こんなことを書いているのかと言うと、私は今猛烈に腹が立っているから。あなたが傷つく可能性があるから信じるのをやめろだなんて、馬鹿げてる。「リスクがあるからこそ信じることに意味がある」のに、どうしてそれが分からないのだろう。どうして、その人間があなたと同じ悪意を持っていると決めつけるのか。

 

社交辞令で誘って来る人は私が全部真に受けてあげますから、二度と社交辞令は口にしないでください。