《#001 「なんで複数の人と恋人関係になっちゃいけないの?」28歳の彼女が“社会の理不尽な恋愛ルール”に物申す。| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』》を読んで

昨日、友人からこちらの記事のリンクが送られてきました。

 

beinspiredglobal.com

 

はじめは友人がどういった意図でこのリンクを送ってきたのか分からなかったけれど、そのタイトルからしてポリアモリーに触れているのだろうなということは一目瞭然だったので、とりあえず読んでみました。

 

読んでみて感じたのは、圧倒的違和感。もやもやと不快な感じ。これはきちんと言語化しなくてはいけないなと思ったので、私がこの記事を読んで思ったことを以下に具体的に綴っていこうと思います。

 

その前に、最初に私の立ち位置から話した方が私の感想が伝わりやすいと思うので、まずは私について少し話します。

私は現在23歳、性別は女、シスジェンダー、今のところ男性としか恋愛してきていないのでヘテロセクシュアルと自認しています。そして、恋愛において私は「ポリアモラスな(ノンモノガミーな)」性質を持っています。

最近は少しづつメディアで取り上げられることも増えたので、「ポリアモリー(複数恋愛)」を知る人も増えてきていると思いますが、ポリアモラスな性質というのはポリアモリー的な性質ということです。しかし私はポリアモリーとは名乗りません。あくまでポリアモラスな人間です。何故かというと、私のスタイルはポリアモリーの定義からは外れるからです。(ポリアモリーの定義とは「複数のパートナーと同時に、合意の上で性愛関係を持ち、感情的に深く関わる親密な関係を築く実践」です。)

とはいえ、ポリアモラスな性質を持つものとして、悩んだり考えたりしながら生きてきました。そして、ポリアモラスな人間として今回の記事を読み、いろいろと思うことがあったのです。

 

まず、こちらの記事では実際にポリアモリーを実践していると言う相談者が、ポリアモリーについて「なかなか人に理解してもらえませんが、どう思いますか?」と田代さんに相談しています。対して答えとなる本文の見出しは4つ。

  • 「恋愛は好きにさせてくれ」
  • 「クリーンすぎる恋愛感は気持ち悪い」
  • 「ひとを愛するってなんだろう」
  • 「おすすめの本」

ひとつめで「恋愛は好きにさせてくれ」と言いながらふたつめで「クリーンすぎる恋愛感は気持ち悪い」と言っているのはどういうことなのとは思いますが、それはとりあえず置いておき、私が主に気になったのは「ひとを愛するってなんだろう」の見出しに続く文章です。以下、私がこれは如何なものかと思った文章をピックアップします。

 

開放的で包括的なイメージがある愛ですが、恋愛は極めて排他的で独占的な性格をもっています。「あなたを愛する」ということは、その瞬間「他のあなたを愛さない」ことです。人間は、時間と空間に制約された有限的存在なので、「愛している」という経験は、「いまという時間」と「目の前にいる人」に必ず制限される。だから文字通り「同時に」複数を愛することはできないと、わたしは思います。

これについては、確かに「文字通りに」同時という言葉を全く同じ瞬間、「いまという時間に」と解釈すれば、ふたつのことを全く同時に想うことは難しいと私も思います。ただ、その瞬間に誰かを愛したからといって他の誰かを愛せないということではありません。愛とは誰かにあげたらなくなってしまうものでも、経済学のパイのように分配するものでもありません。友人Aと過ごしているからといって友人Bへの愛を無くしているわけではないのと一緒です。自分と関わる人間には、友人でも恋人でも愛を感じますよね。個々の関係にはそれぞれの愛が育まれ、それは同時に存在します。

また、ポリアモリーが説明されるときに使われる同時という言葉はどちらかといえば「同時進行」と言った方が正しいのではないでしょうか。私の友人はポリアモリーの実践は「時間割表みたいなイメージ」と言っていましたが、まさにそんな感じだと思います。時間割表の、どの予定も大事ですしね。

 

寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、心の内奥をだれかに打ち明けたくてたまらないとき、すでにどこかで誰かを選択しているのではないでしょうか。その人が、愛する人、なのではないでしょうか。明日それが変わるとしても。

 これについては、過去にはてなブログで見かけたポリアモリーについての記事が説明してくれていたのですが、見つけられなかったので(2年前くらいかな?、タイトルは「私のことはクソビッチでもなんでもいいから聞いてくれ」みたいな感じだった気がするので分かるひとは教えてください。)、私が簡単に説明すると、「寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、心の内奥をだれかに打ち明けたくてたまらないとき」に会いたい人はその事柄によって違います。これは別にポリアモリーとか関係ないのではないでしょうか。もちろん、この人には私の全てを知っていてほしい!と思いなんでも話したくなることもありますが、かと言って別の誰かには全てを伝えていないから愛していないというわけではないですし。

 

この次の段落では田代さんはトルストイの「愛は惜しみなく与う」と、有島武郎の「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ」という言葉を引用しています。私が引用した田代さんの文章のひとつめにも「開放的で包括的なイメージがある愛ですが、恋愛は極めて排他的で独占的な性格をもっています。」とあるように、田代さんは愛は独占的で何かを全てを奪ってしまうようなものと考えているようですね。ただ、私は個人的な見解として、それは愛ではないと思います。それは「恋」です。好きで好きで全てを独占したくて相手から奪おうとするのが恋、愛していてその人の幸せを願うからこそ相手の全てを受け入れるのが愛。私はそう思っています。恋とか愛とか、そう言ったものはそれこそ「好きにさせてくれ」ってなもんで、人のいう定義に合わせる必要なんてないし、これは完全に私の私的な見解です。田代さんもそう思っているから『「恋愛」は極めて排他的〜』と、愛ではなく恋愛と書いたのかな?とも思ったりもしましたがそこんところは分かりません。

 

そして、私が何よりショッキングでこれはよろしくないと思ったのがこちらの文章。

そんな深いエネルギー、複数に与えられるのかなあ。

 他の誰かを蹴落としてもこの人だけはなにがあっても守りたい。一人だけ救ってやるって神様に言われたら、まじお願いだからこいつにしてくれ! と言わざるをえない。極端だけど、セックスできるとか相手に尽くしたいとかではなく、この願望を基準に考えるとどうでしょうか。選べなかったら、誰のこともたいして愛していない気さえします。

 これは、まさにこの文章こそが、ポリアモリーが戦ってきたものです。ポリアモラスな関係を築く人間がよく言われる、「あなたは複数人を愛しているのではなくて、まだ本当の愛を知らないだけだよ」、「本当は誰のことも好きじゃないんでしょう」という言葉。まさにそっくりそのままのことを田代さんはおっしゃっているわけですね。

田代さんがポリアモリーについてよく知らないのは分かりますし、別にそこを批判したいわけではありません。ただ、まるで彼女の考えたことが普遍の真理であるかのように書かれているのが良くないなと思います。もしあなたが同時に複数人を愛せないのだとしても、他の人間も同じだとは限りません。「私は」こう思うし、「私は」できないと主語をはっきりさせるべきです。

また、その対象についてあまり知らないとしても、相手は人間ですから何を言われたら傷つくのだろうか?ということを一度考えてみるべきです。同性愛者に向かって「そんな深いエネルギー、同性に対して与えられるのかなあ。」と言ったら相手を傷つけるということは分かるはずですから。

 

以上、私がもやもやしたことを言語化したまとめでした。

私としては、「そもそもこれ相談者に対して書いた文章じゃなくね〜」って思いますが、まあ、相談室じゃなくて哲学の部屋だもんね。

 

おわり